ネットの停留所

ネット上の話題の考察。

吉野家コピペに見るネットユーザーの劣化について

初めて書く記事がネタとしては鮮度がないのは置いといて、少し前にツイッター上で話題になったものである。これが今現在のネットを取り巻くユーザーの特徴を顕著に表す事例としてまず最初に取り上げようと思ったのである。

この事件を見れば今のネットユーザーを概観できる。

 

はてなブックマーク - 【悲報】吉野家コピペ、今のtwitter民には通用しなかった - Togetter

 

私はこれが話題になった当時、そういえばそんなコピペもあったなぁぐらいにしか思わなかったのだが、その後のネットユーザーの半ば負け惜しみとも思えるような反応を見て、ネットユーザーは劣化したと思ったのである。

僭越ながら私自身このコピペ初出時にはまだネット触れたことがなかったのでコピペ自体は2ch(現5ch)のVIPで知ったんだろうと思う。おそらくコピペが登場してから数年ないしは10年ぐらいあとに知ったのかもしれない。

 

最初に述べて置きたいのは、ネット上というのは知ってるか/知らないかの世界である。

つまり、知らないやつは情弱で知っているやつは情強なのである。(★)

これ以上でも以下でもない、新しいも古いもない。ネットとはそういう世界なのである。

 

そこで当時のいくつかの反応を取り上げてみようと思う。

例えば、老害、古いネタだとか2chの話題をツイッターに持ち出すな、等の反応があった。

(★)に照らせばこれらの意見はすべて終わっている。ネタの新しさや古さというのはあてにならない。というか本質的ではない。新しかろうが古かろうがネタはネタにすぎない。

少なくとも昔のネットユーザーは釣られてブチ切れたとしても、その意見が通らないことを承知でいた。つまりそんな古いネタ知るわけねーだろ!と開き直ったとしてもそれを周りのネットユーザーに認めさせることはできない。釣られた自分が愚かであるという認識はあったであろうと思う。

ところがツイッターを始めとする情弱がひしめく世界においては知らない人間の数>知ってる人間の数という構図になり、彼らは数の暴力によって居直ることが可能になったのである。

また2chの話題をツイッターでという話に関してこれもおかしな話である。

インターネットとはツイッターがあってインスタグラムがあって、それぞれ独立して存在しているわけではない。あっちのネタがこっちのサイトに、なんていうことは当然のこととしてある。あっちで流行ったネタをこっちで使っちゃいけないなんてことはない。今でも5chではツイッターだろうがなんだろうが、あらゆるネタを取り扱っている。

つまり古くからのネットユーザーはインターネット上にあらゆるサイトがあるという意識があるが、現在のネットユーザーにとってはツイッターツイッターでありインスタグラムはインスタグラムなのである。それらが相互に連携しているといったようなイメージでいる。この意識差は決定的に重要である。

昔のネットユーザーは日々成長していた。少なくともネット上ということに限って言えばネタを見分ける嗅覚、一旦みんなの反応を見てから書き込む等恥をかきながら成長してきたのである。

そうしたネットユーザーであれば明らかにあの吉野家コピペの改変はなにかおかしい、元ネタがありそうな文章であるということは一発で分かる。

 

しかし、考察はここでは終わらない。彼らはなぜこんなにもブチギレて反論するのかということである。

それは彼らが知らず知らずの間に自分らは流行の最先端にいると錯覚し、なんでも知っているかの如く振る舞っているからである。

 

つまり彼らにとって知らなかったということは彼ら自身に強烈な劣等感を感じさせるのである(意識的であれ無意識的であれ)。こんなに来る日も来る日もいろんな話題を知っている私たちが、知らないなんてそんなネタはゴミ!許せない!とこうなるわけである。

昔のネットユーザーは明らかに嗜好の異なる人間との関わりがあった。それは匿名でどこの誰かもわからなくて、唯一IDだけがその人の同一性を保ち、しかし明日になればまた違うIDが生成され別人になる。このようなシステム上のやり取りをしてきた人間と、ツイッターで好きな人間だけをフィルタリングしてフォローして自分の好きな意見しか耳目しない人間とでは決定的な差がある。

 

私達は自分の知らないことが突然ネット上で現れることは知っているし、ネット上の情報には多くの嘘が紛れている事も知っている。しかし現在のネットユーザーにとって真実とは数なのである。数を武器にして間違った意見を押し通そうとする。数に支援された意見を鵜呑みにする。

思えばあんだけ長い歴史がある2ch(現5ch)がフェイクニュースにさして引っかからないのも彼らにとってまずその目の前のものが本物かどうか見極めるという目があるからである。それは彼らも当然恥をかいたことがあるからである。私もそうである。

 

sdtrd 20年近く前のネタを使うってのは、90年代に植木等谷啓のギャグで笑いを取ろうとしてたおっさんと同じようなことしてるんだぞ。

 

上記のブックマークでこんな意見もあるが、ネット上と現実世界は違う。ネットとは積み重ねである。昔のネタから今日生まれた新しいネタまで混在するカオスの世界である。これはすごく星がついてるコメントだが、そのことが現ネットユーザーの負け惜しみがにじみ出ていて非常に笑えるのである。

故に何度も言うようだがこの古い新しいというのは意味がない。そうではない。

ネットユーザーとはネタかネタでないかを見分ける能力を持たねばならない。一旦落ち着いて、この文章ちょっとおかしいな。何かの改変かな?と思えるぐらいの冷静さと智慧を持つべきである。それがなくて、ただただ知ってる人間は老害と騒ぎ立てても意味がないのである。肝心なのはその時点で知ってるか知らないかではない。ネット上には自分の知らないようなことが溢れているということ、ネタを見分ける力なのである。

知らないことがありうる、見分ける。というこの2つである。

 

そういうわけでネットユーザーの劣化は深刻なのである。

 

明日はゆたぼんについて書こう。